原の町駅から車で西へ約20分。阿武隈 山地の麓に「曜変天目&枯山水美術館」があります。「曜変天目」とは約900年前、中国で抹茶が爆発的ブームとなり膨大な数の黒い茶碗が作られました。その中に奇跡的にメタリックな虹彩と円斑紋が発生したものを言い、現在、世界に3碗、全て日本の国宝になっています。中国から輸入し、将軍家や近代の財閥などの所有となり、近代になって次第に広く知られるようになりました。50年の研究の末に曜変天目を再現し、美術館と庭園を造った最上曜さんにお話を伺いました。
山形県生まれで小学生の時に原町区へ引っ越し。その時の送別会でもらった縄文土器のかけらが転機となりました。それまでの家業のリサイクル業の分別場から金属やガラスなどの宝物探しの遊びをしていた少年時代から、やがて土器の発掘や火炎土器の制作、古鏡の復元などを行うようになりました。
大学卒業後に北大路魯山人の直弟子、故小野寺玄氏に師事。その後、燃料の赤松の特産地で、「地質の標本室」と呼ばれるこの地で、様々な土石を用いて1987年、相馬中乃郷焼き入道窯を開設し個性的な焼き物を作ってきました。これまで市立博物館の土器製作指導や桜井古墳の資料館へレプリカ納品、教育委員会から古相馬焼の本の解説をしたり、旧松栄高校でも長年講師も務めてきました。中学生の時に研究者に教わった古相馬焼の知識や技法、高校生の時の地質調査、その後の陶芸修行で吸収した経験などから独自の研究開発が曜変天目につながりました。
「曜変」の「曜」とは星の瞬き・輝きを表し、その特殊な紋様の発生は900年間謎でした。
日本の禅僧が修行で中国の天目山から記念に茶碗を持ち帰ったところから日本では黒い茶碗や黒い釉薬を天目と呼ぶようになりました。中国ではその後、抹茶から緑茶や烏龍茶などにお茶の流行が変わり、大量の使われなくなった点茶用の中古の天目碗が日本に輸出され、その中にあった「曜変天目」が「侘び寂び」を愛する日本人の心を捉えたのです。
南相馬市への引っ越しが因となり、縄文土器のかけらが生涯を方向づけ、相馬焼の伝統とこの地の地質や火力発電所から出る石炭灰など様々な地元のご縁で、陶縁50年、原理に基づいて曜変天目を作ることが出来ました。しかし、この独特な紋様がなぜ突然、奇跡的に発生したかについてははまだ解明できていません。2004年、この特別な器を最もふさわしい舞台でご覧いただきたいと願って自らデザインした美術館を築きました。その周りを囲む作庭も35年に及んでいます。森林の伐採から整地や石積みも自ら行い、様々な枯山水庭園を池泉を中心に回遊できるようにしました。秋と春だけ、少人数の大人だけでゆったりと「侘び寂び」そして「煌び」を愛でる特別な空間を目指しています。